世界遺産 吉野山の桜
"吉野といえば桜、桜といえば吉野"といわれるほど、ことのほか吉野の桜は全国に知れわたっています。その桜は、花見のために植えられた桜ではありません。我が国固有の宗教「修験道」の開祖である役行者が、難行苦行の末に感得した本尊金剛蔵王権現を桜の木で刻んだという故事により、桜は神木であり聖木とされてきました。このことから、信徒らによって献木運動が起こり、吉野は桜の山となっていったのです。つまり、吉野の桜は、ただ単なる花見の対象としてではなく、信仰の証としての意味を持っています。そのことからすると、世界遺産の要素の一つである「文化的景観」の代表格であるといえるでしょう。
吉野山は全国的に桜の名所として有名で、4月の上旬から中旬にかけて3万本ともいわれるシロヤマザクラが豪 華絢爛に咲きみだれます。しかし、みなさんはなぜ吉野山にこれほど多くの 桜が植えられたかご存知でしょうか。
日本全国の多くの桜の名所では、近代になってから桜並木を整備したり、古くからある古木を大切に 保護したり、いわゆる「花見」のために桜を植栽・管理しています。しかし、吉野の桜はそれらのものと は異なり、「花見」のためではなく、山岳宗教と密接に結びついた信仰の桜として現在まで大切に保護されてきました。
その起源は今から約1300年前にさかのぼります。その当時は、山々には神が宿るとされ、吉野は神仙の住む理想郷として認識されていました。のちに修験道の開祖と呼ばれる役小角(役行者)は、山上ヶ岳に深く分け入り、一千日の難行苦行の果てに憤怒の形相もおそろしい蔵王権現を感得し、その尊像こそ濁世の民衆を救うものだとして桜の木に刻み、これを山上ヶ岳と吉野山に祀ったとされています。その後、役行者の神秘的な伝承と修験道が盛行するにつれて、本尊を刻んだ「桜」こそ「御神木」としてふさわしいとされ、またそれと同時に蔵王権現を本尊とする金峯山寺への参詣もさかんになり、御神木の献木という行為によって植え続けられました。また、吉野にはその桜に惹かれて、多くの文人墨客が訪れています。古くは西行法師が吉野に庵を結び、多くの歌を残しました。
吉野山 こずゑの花を見し日より 心は身にもそはずなりにき
花を見し 昔の心あらためて 吉野の里に 住まんとぞ思ふ
吉野山 奥をも我ぞ知りぬべき 花ゆゑ深く 入りならひつつ
その西行法師に憧れ、吉野に2度杖をひいたのが松尾芭蕉です。貞享元(1684)年の秋9月に西行 法師を慕って、奥千本西行庵に向かい、
露とくとく試みに浮世すすがばや
と詠んで、「野晒紀行」にまとめました。さらに4年後、弟子の坪井杜国を伴い、花の吉野を目指しまし た。その旅をまとめた「笈の小文」には次のような句がおさめられています。
雲雀より 空にやすらふ 峠かな
春雨の 木下につたふ 清水かな
また、国学者本居宣長は、なき父母がなかなか子宝に恵まれず、吉野の子守の神(吉野水分神社)に 熱心にお参りをしたご加護で自分が生まれたと信じており、そのお礼参りのため、世に聞く吉野の桜見 物をかねて春の吉野に訪れました。その様子は「菅笠日記」に納められています。 この頃から一般庶民の吉野への旅が盛んになり、春の吉野山は今と変わりない賑わいを呈するように なりました。
少し時代はさかのぼりますが、吉野での花見といえば、豊太閤秀吉の 花見を抜きには語れません。秀吉が、絶頂の勢力を誇った文禄3(1594 )年、徳川家康、宇喜多秀家、前田利家、伊達政宗ら錚々たる武将をはじめ、茶人、連歌師たちを伴い、総勢5千人の供ぞろえで吉野山を訪れまし た。しかし、この年の吉野は長雨に祟られ、秀吉が吉野山に入ってから3 日間雨が降り続きました。苛立った秀吉は、同行していた聖護院の僧道 澄に「雨が止まなければ吉野山に火をかけて即刻下山する」と伝えると、道澄はあわてて、吉野全山の僧たちに晴天祈願を命じました。その甲斐 あってか、翌日には前日までの雨が嘘のように晴れ上がり、盛大に豪華 絢爛な花見が催され、さすがの秀吉も吉野山の神仏の効験に感じ入ったと伝えられています。
その後、明治の廃仏毀釈や第二次世界大戦等により一時吉野山の桜も衰退を辿りますが、吉野山保勝会をはじめ関係者の懸命の努力により、今では往時の勢いを取り戻しつつあります。今までに紹介 した他にも、吉野には源義経と静、南北朝時代の後醍醐天皇など、様々な場面で歴史の舞台に登場します。
吉野山の桜の群落
吉野山の桜の群落といえば、現在では"下千本""中千本""上千本""奥千本"という様に、憧れの地の名とはとても言い難い(?)名称で呼ばれていますが、かつては様々なゆかしい群落名がありました。その幾つかをご紹介しましよう。
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長峰の桜
かつて吉野山に登る最初の坂道であった一の坂(左曽・橋屋)を登り切ると青年の家を経て不動坂付近まで、峰(稜線)伝いに道が続きます。かつて、この長い峰道の両側には桜並木がありました。春ともなれば花のトンネルのような状態であったといいます。
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嵐山の桜
吉野山観光駐車場の南側にある小高い丘を嵐山と呼び、かつては桜が覆い茂っていたと云われています。鎌倉時代の亀山上皇が嵯峨離宮の近くに、蔵王権現を勧請し、この地の桜を地名と共に移したことが「五代帝王物語」に記されています。
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千本(ちもと)の桜
昭憲皇太后御野立所辺りから眺める桜の大群落をいいます。往古から吉野山でも最も桜の数が多く、将に見渡す限りの桜というイメージから名付けられたのでしょう。
亀石桜
かつて、旧七曲坂の途中に亀石という大岩があって、その周辺の桜の群落が殊に見事であったので、特に亀石桜と呼ばれていました。
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花園山(ホオズキ尾)の桜
七曲坂の谷向かいの山は今も昔も桜が多く、花園山と呼ばれていました。また、その周辺の谷は保津峡と呼ばれていたのですが、嵐山とともに京都嵯峨野にその名を移されたといわれています。保津峡が訛って、今では花園山をホオズキ尾と読んでいます。
桜田
現在の吉野駅周辺の瀬古川沿いは、かつて水田がたくさんありその畦や境界にも桜が多かったので、桜田と呼ばれていました。
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関屋の桜
金峯山寺の総門である黒門はかつての関所で、ここより南へは身分の高い者でも馬から下りて通らねばなりませんでした。このため、この付近の坂を関屋坂と呼び、付近の桜を関屋の桜と呼んでいます。
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御所桜
現在の南朝妙法殿の地は、延元2(1336)年の春に後醍醐天皇が皇居と定められて以来、後村上・長慶・後亀山各天皇までお住まいになられた南朝の皇居跡で、これに因んでこの付近の桜を御所桜と呼んでいます。
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相叶(おおか)の桜
参陵トンネルが通るこんもりとした桜の丘を相叶(おおか)と呼んでいます。その由来は不明ですが、そのゆかしい地名と桜の古木の樹林が、観桜客の心を誘ってくれます。
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塔尾(とうのお)の桜
後醍醐天皇の勅願寺の如意輪寺や後醍醐天皇陵がある地域一帯を塔尾(とうのお)と呼んでいます。吉野山の街並みから谷一つ隔てた桜の大群落で、急峻な斜面に咲き乱れる光景は、当に桜の錦絵のようです。
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布引桜
俗にいう上千本の頂上部にあたる花矢倉付近から見下ろすと、まるで反物の布を引き延ばした如く見える桜の群落を言います。この中には火の見櫓付近から相叶を経て塔尾の桜も含まれています。
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滝桜
吉水神社の一目千本と呼ばれる辺りや、参陵トンネルを如意輪寺側にぬけた県道から南方を見上げると、俗に言う上千本の頂上部から、あたかも大瀑布が降り落ちるが如く見える桜の大群落です。
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西行谷の桜
西行庵が佇む谷にある桜の群落で、山桜の一種で、花がやや小さなカスミザクラもあります。桜をこよなく愛した西行法師が未だ見ぬ方の花を訪ねたのはこの辺りであったのでしょうか。近年まで僅かな本数でしたが、篤志家のご努力により、新たに多くの桜が植栽されています。
吉野山の名のある桜
吉野山には数多の桜があるが、群落名で呼ばれることはあっても固有の名のある桜は限られています。その数少ない名前をつけられた桜をご紹介しましょう。
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四本桜(よもとのさくら)
かつて吉野山に登る最初の坂道であった一の坂蔵王堂前にある4本の桜で、俗にシモンザクラと呼ばれています。元弘3(1333)年、大塔宮護良親王が鎌倉倒幕の兵を挙げられた際の御陣地の陣幕の柱跡に、親王の功績を偲んで植え継げられています。
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天人桜(てんにんざくら)
大和三名園の一つに数えられる竹林院群芳園の池の畔にあります。天女が舞い降りるが如き姿に見えるために、その名がついたとされています。吉野山に現存する数多い桜の中でも、最も樹齢を重ねた古木ではないかと考えられます。
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夢見の桜(ゆめみのさくら)
大峯山護持院の一つである櫻本坊の大師堂の前にあります。壬申の乱に先立ち、吉野に潜行されていた大海人皇子(後の天武天皇)が、ある冬の日、満開に咲く桜の夢を見て、目覚めると谷向かいの丘の上で桜の老木が満開の花をつけていたそうです。これを戦勝の吉兆として挙兵し、壬申の乱に勝利して天武天皇となられたのです。天皇は、凱旋後、吉兆を示した桜の老木の傍に一宇を設けたのが、櫻本坊の濫觴と伝わっています。それに因んで、夢見の桜と名付けられた桜が、櫻本坊の境内に植え継がれています。
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勝手桜(かってざくら)
勝手神社の裏山を御山(ミヤマ)と呼び、その南端にありました。種子に発芽力が無く、挿し木で植え継がれてきましたが、先年、急に枯死してしまいました。
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雲井の桜(くもいのさくら)
雲居の桜とは、本来、天皇がお住まいになる御所の中に咲く桜のことで、雲のように遠く、近づきがたい所にある桜という意味です。後醍醐天皇が、吉野でお過ごしの頃、里人が雲井と呼ぶ山の上(上千本の頂上部で、獅子尾坂を登り切る直前)にも桜が咲いているのをご覧になり、
ここにても雲井の桜咲きにけりただ仮初めの宿と思ふに
と詠じられました。
昭和30年代まで植え継がれていましたが、台風で折損して以来、途絶えています。