記紀万葉と吉野
我が国の最も古い時代の文献といえば、古事記であり、六国史の最初に位置する日本書紀であり、最古の歌集である万葉集などが挙げられます。そのいずれの文献にも吉野(芳野)が登場します。それほど、古代の中央政権にとって吉野は重要な位置を占めていたのでしょう。
このことについては、吉野町発行の歴史文化叢書の一つ「憧憬 古代史の吉野」に詳しく知ることができます。
憧憬古代史の吉野 記紀・万葉・懐風藻の風土
吉野といえば桜と言われるほど有名な吉野山の桜。約1300年前に山桜が蔵王権現の御神木となったことが縁起とされている。しかしそれ以前の時代にも「古代日本」の歩みを考える上で「吉野」は重要な役割を果たしてきた。本書では、「吉野」が史上に初めて登場する「古事記」を筆頭に「日本書紀」「続日本記」「万葉集」「懐風藻」などの古典を通して古代の吉野を探る。
2,000円(税込み)※吉野町歴史文化叢書第2集
吉野に残る万葉の世界
吉野には、万葉の時代を偲ばせてくれる景観や遺跡が残されています。その代表的なものをご紹介しましょう。
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宮滝遺跡(史跡)
良き人の良しとよく見て良しと言ひし
吉野よく見よ良き人よく見
天武天皇吉野川の河畔に広がる宮滝のおよそ12haの台地の中に縄文時代から平安時代にかけての幾層にも及ぶ遺跡が眠っています。宮滝式土器と名付けられた特徴的な土器や、斉明天皇や聖武天皇など各代に営まれた吉野宮・吉野離宮のものと思われる遺跡などが発見されています。
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吉野の宮
古を思ほすらしもわご大君
吉野の宮をあり通ひ見す
大伴家持宮滝の地には、斉明天皇の時代から聖武天皇の時代に至る間の離宮が営まれ、その跡が発掘されています。当時の大宮人は、この地に来て、川の流れや山々の風景を多くの歌に残しています。
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象の小川(きさのおがわ)
昔見し象の小川を今見れば
いよいよ清けくなりにけるかも
大伴旅人青根ヶ峰の北麓、吉野山を水源とし、高滝を経て喜佐谷の集落を通り、夢のわだで吉野川に注ぎます。清らかな水は、今も昔も変わらず、訪れる者の心を洗い流してくれます。
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瀧つ河内(たぎつこうち)
万代に見とも飽かめやみ吉野の
激る河内の大宮所
笠金村かつて、柴橋から上流を望めば、切り立った岩肌とそれを縫うように激流が下っていました。筏流しのために開鑿され、上流にダムもでき、流れは緩やかになりましたが、明媚な風光は今も変わりません
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青根ヶ峰(天の水分山/あめのみくまりやま)
み吉野の青根が峰の苔蓆
誰が織りけむ経緯なしに
詠み人しらず東に音無川、南に丹生川、西に秋野川、北に象川が流れ出すこの山を、古代の人々は神さぶる山と仰ぎ、緑滴るその姿を賞美し、崇敬したのです。大宮人から磐根こごしき水分山とも詠嘆されました。
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象山(きさやま)
み吉野の象山のまのこぬれには
ここだもさわぐ鳥の声かも
山部赤人象川の河口付近の西側に聳える山で、名の由来は、山容が象牙の縞模様に似ていたことからとの説がありますが、はっきりしません。麓の桜木神社は、この山の木々を仰ぐように鎮座しています。
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三船山(みふねやま)
瀧の上の三船の山に居る雲の
常にあらむと我が思はなくに
弓削皇子象川の谷を隔てて東側に聳えるこの山は、吉野宮や吉野離宮から見ると、船底が折り重なるように見えたので、この名がついたと言われています。
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夢のわだ
我が行きは久にはあらじ夢のわだ
瀬にはならずて淵にありこそ
大伴旅人象川が吉野川本流に合流する地点を「夢の和田」「夢の淵」などと呼びます。水量が少なくなった今日ではよくわかりませんが、荒々しい流れがこの辺りだけ淀んでいたようです。
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菜摘(なつみ)
吉野なる菜摘の川の川淀に
鴨ぞ鳴くなる山陰にして
湯原王瀧つ河内と呼ばれる激流に反して、そのすぐ上流には、菜摘の川淀と呼ばれる吉野川の流れがゆったりと淀む山紫水明の場所があったのです。古代の人々は、この違いをも楽しんだことでしょう。
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六田の川(むつたのかわ)
かわづ鳴く六田の川の川楊の
ねもころ見れど飽かぬ川かも
不詳宮滝付近の激しい流れに反して、やや下流の六田の辺りは、川幅も広く、ゆったりとして、いよいよ清らかに流れていたのでしょう。万葉人は、この流れと自らの人生を見比べていたのかもしれません。