太平記

太平記と吉野山

「太平記」は、我が国中世の大乱を描いた戦記文学です。乱世を描いてなぜ「太平記」というのか不可解な作品で、その内容は当に戦乱記というに相応しいものです。太平記の記述に表れる地域は、近畿、関東地域を中心にほぼ我が国全土にわたっていますが、ことに吉野山は、後醍醐天皇が足利尊氏の擁立する京都の北朝に対抗して、南朝を立てられたところとして重要な地位を占めています。
太平記に描かれた吉野山は、巻第七「吉野城戦の事」、巻第十八「先帝吉野潜行の事」、巻第二十一「先帝崩御の事」、巻第二十六「正行吉野に参る事」、「吉野炎上の事」、巻第三十四「吉野御廟神霊の事」に登場します。
その内容を詳しくお知りになりたい方は、吉野町発行の吉野歴史叢書「吉野山と太平記」をご覧下さい。

吉野山と太平記

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歴史と観光の町といわれる吉野に都がおかれた時代。御醍醐天皇が難を逃れ、再起をはかる拠点となった「南北朝時代」の吉野。わが国最古の大乱を描いたといわれる「太平記」に描かれた、また同時期の「新葉和歌集」に詠われた南朝の史跡にスポットを当て、中世動乱の時代に生きた、多くの人々が見た吉野を今改めて振り返る。

1000円(税込み)※吉野町歴史文化叢書第1集

吉野山に残る太平記

吉野山には、太平記の時代の史跡が数多く残され、乱世の面影を今に伝えています。その中から主なものをご紹介します。

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    丈六平(吉野神宮)

    吉野山の北端近くにあり、吉野山では数少ない広大な平場に明治22(1889)年、吉野神宮が創立されました。それ以前は、丈六山一之蔵王堂勝福寺という金峯山寺の一院があり、元弘3(1333)年、大塔宮護良親王が吉野山に陣を構えられたとき、北條幕府方の二階堂道蘊に占領されて、その本陣となったところです。

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    村上義光公の墓

    吉野神宮から約1km、不動阪を上り詰めた丘の上に立派な古い宝篋印塔があり、村上義光公の墓と伝えられています。義光公は、信州坂城(長野県坂城町)の人で、早くから護良親王に付き従って活躍した人物で、元弘3(1333)年閏2月1日、最期と覚悟された護良親王を落ち延びいただくために、御身代わりとなって割腹し、壮絶な最期を遂げた場面は、太平記の中でも余りにも印象的といえるでしょう。

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    攻めが辻

    村上義光公の墓から吉野山観光駐車場を経て、吉野山の町中に向かって進むと、吉野駅から七曲坂を上り詰めた道と出合います。ここを攻めが辻といい、元弘や正平の戦のときには、攻め上ってくる敵勢と、これを迎え撃つ宮方(南朝)の兵が激しい戦いを繰り広げた所と伝えられています。

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    大橋

    攻めが辻の直ぐ南方に、朱塗りの橋が架かっています。吉野三橋の一つに数えられ、形こそ橋の格好をしていますが、川に架かる普通の橋ではありません。橋の下には水がなく、両側は谷になっています。元弘の戦に際して、護良親王が吉野山を要塞化するにあたり造った大塔宮吉野城の堀切(空堀)に架かる橋なのです。

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    銅の鳥居(重要文化財)

    大橋を渡り、吉野山の町中を道なりに進み、黒門を潜り、関屋坂を上ると石垣の上に大きな銅の鳥居(かねのとりい)が目に入ります。太平記には、正平3(1348)年1月28日に、足利尊氏の執事であった高師直の兵火に焼け落ちたことが記されてます。その後の再建の時期については定かではありません。

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    仁王門(国宝)

    銅の鳥居から町中を進むと高い石垣の上に大きな仁王像を配した重層の巨大な門がそびえ建っています。太平記には、正平3年の高師直の兵火によって、「金剛力士の二階の門」も灰燼となったことが記されています。これが、仁王門のこととされていましたが、近年の仁王像解体移動の際に、延元3(1338)年と延元4年の造立の墨書名が見つかり、現在の建物は、少なくとも下層は延元以前の建立とわかりました。

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    蔵王堂(国宝)

    仁王門からの参道を進むと、巨大なお堂の前に出ます。今も修験道の根本道場である金峯山寺の本堂として多くの人々の崇敬を集めていますが、太平記の時代は多くの荘園と吉野大衆と呼ばれる僧兵を抱える一大勢力を誇っていました。この勢力を頼みとされて宮方(南朝)の方々が吉野にお越しになったといえるでしょう。元弘、正平の戦で焼け落ちたものの、今も吉野の象徴として聳え立っています。

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    大塔宮御陣地跡

    蔵王堂の前に4本の桜が植えられています。四本桜と呼ばれるこの桜は、元弘3(1333)年閏2月1日に大塔宮護良親王が最期の陣幕を張られた柱跡に植え続けられています。親王は、ここで近臣とともに最期を御覚悟されての御酒宴を催されたところとして、それを偲び植え続けられているのです。

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    二天門跡(村上義光公忠死の所)

    蔵王堂の正面、壇上伽藍の南端にかつて二天門といわれる二階の門がありました。最期の御覚悟をされた護良親王の御身代わりとなって、村上義光が二天門の二階に駆け上り、敵勢を前にして、腹一文字にかき切り、壮絶な最期を遂げたことが太平記に記されています。

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    吉水神社(書院:重要文化財)

    元は金峯山寺の塔頭で吉水院と称していましたが、明治初年の廃仏毀釈で神社に改められました。延元元(1336)年、京都花山院の幽閉先から脱出された後醍醐天皇が吉野に潜幸されて、先ずお入りになり行在所とされたのが吉水院でした。書院は我が国の住宅建築で最も古いものといわれています。

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    村上義隆の墓

    村上義隆は、二天門で自害した父義光の遺言に従って、高野へ落ちる大塔宮護良親王一行の殿(しんがり)を務めました。勝手神社まえの木戸坂を下り、九十九坂を登る途中で、一人踏みとどまって、迫る敵兵と奮戦の後に、自害して果てたことを太平記は伝えています。

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    如意輪寺

    如意輪寺は日蔵道賢の開基の古寺で、後醍醐天皇の勅願寺となったことで知られています。楠木正成の子正行は、正平2(1346)年、足利の軍勢が吉野に迫っていることを知り、死を覚悟して四條畷へ向かったのです。その出陣にあたり、

    かへらじとかねて思へば梓弓
    亡き数にいる名をぞとどむる

    との辞世を、堂の扉に鏃で彫りつけ、刻み残したことは余りにも有名です。

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    後醍醐天皇陵

    延元4(1339)年8月16日、後醍醐天皇は、京都奪回、四海太平のお望みを達せられることなく、吉野の行宮で崩御せられました。天皇陵は通常、南面して築造されますが、この御陵は天皇の京都奪還のご遺志を示すように真北の京都の方角に向かって造られており、延元の陵、北面の陵などと呼ばれています。

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    天王橋

    吉野三橋の一つで、大梵天王社(小山神社)の社前にあります。これも、大橋と同様に大塔宮吉野城の堀切の跡で、昭和40年代までは石の橋が架けられていましたが、今では埋め立てられ、欄干のみがその姿を偲ばせています。

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    大塔宮仰徳碑と火の見櫓

    天王橋を過ぎ、猿曳き坂を登り切ると、右手の台地に広場があり、その最奥部に切石を高く積み上げた大きな碑があります。大塔宮護良親王の鎌倉倒幕の功績を讃える碑で、その背後にある小高い丘は、金剛山に拠る楠木正成の軍勢と連絡を取るための狼煙台の跡で、火の見櫓と呼ばれています。

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    宗信法印の墓

    猿曳き坂の次の辰の尾坂の登り口付近の右手に階段を上り、その最奥部の玉垣に囲まれた五輪塔がそれです。法印は、太平記の時代の吉水院の住僧で、金峯山寺執行(最高位の僧)として大塔宮護良親王や後醍醐天皇を吉野にお迎えして、お支え申し上げた忠僧です。後醍醐天皇が崩御された際、うち沈む近臣らに檄を飛ばして奮起させたことでも有名です。

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    御幸の芝

    宗信法印のお墓を過ぎて更に登ると四阿風の茶店と小さな広場が道の右手にあります。その茶店は、明治初年の廃仏毀釈で廃された雨師観音堂の跡で、広場を御幸の芝といいます。後醍醐天皇が、雨中にここまでお越しになり、

    ここは猶丹生の社に程ちかし
    祈らば晴れよ五月雨の空

    とお詠みになったところです。

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    丈の橋

    子守宮の門前を右にとって坂道を登りきった所に、かつて吉野三橋の一つとして板橋が架けられていたそうです。大橋・天王橋と同様に、左右から谷が迫り上がった所を開削した大塔宮吉野城の堀切の跡ですが、江戸時代には埋め立てられていたようです。

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    高城山(躑躅ヶ城跡)

    牛頭天王社跡の左手の山を高城山とも躑躅ヶ岡、また鉢伏山ともいいます。すり鉢を伏せたようなこの山の上は、大塔宮吉野城の詰城として重要な場所でした。最後の決戦の場所と頼みにしていたのですが、鎌倉方に内通する者が出て、予想外の背後から攻められ、この詰城が真っ先に落ち、吉野全山が崩れ落ちてしまったのでした。

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